外来に一人の女性が来院された。「先生、覚えてます?」突然そう言われたので、繁々とその顔を眺めるが記憶にない。何せ73年も生きているので、多分どこかでお会いしているのだろうが全く記憶にない。するとその女性が「私先生が開業して初めて先生が取り上げた赤ちゃんです」と言われる。慌てて生年月日を見てみると昭和60年8月19日生まれとなっている。確かに開業日の前日だ。
昭和54年(1979年)私は生まれ故郷の宮崎に帰って来た。まだ29歳だった。そして就職したのが県立宮崎病院である。そこで7年半勤務して、昭和60年(1985年)8月20日に谷口産婦人科医院を宮崎市松橋(現在天満橋のたもとにあるシャトレーゼの場所)で開業した。8月15日開業許可を貰っていたのだが、その日はお盆の日なので縁起が悪いということで8月20日を開業日にしたのだ。
ところがその前日全く知らない人から突然電話があって、「今陣痛があります。他の産婦人科にかかっているのですが、出来たら先生の所で生みたい」という。開業する予定の一日前なので、まだ充分用意が出来ていない。それで断ろうと思った。しかしどうしても私の所で生みたいという。その理由は隣に住んでいるので、今からかかりつけまで行くのは遠いので大変だからだという。もの凄く迷ったが受けることにした。
まず困ったのは前日なのでスタッフが誰も院内に居ないことである。だから電話してスタッフに来てもらうことにした。何とか連絡が付き来てもらった。まだ白衣が届いていないので、私服のままでの仕事である。幸運なことに分娩はスムーズに進み無事生まれた。ところがまだ給湯器からお湯が出ない。そこでやかんでお湯を沸かし沐浴をした。薬もまだ来ていないので、元勤務していた県立宮崎病院にお願いして分けてもらった。それと困ったのは給食である。入院予約はまだ先で暫くはないだろうとのんびり構えていたので、厨房のスタッフも食材も用意していない。仕方がないので家内が自宅で給食を作って配膳した。
次の日8月20日にオープンした。初日の外来来院者は23名。しかし初めてのこととあって随分患者さんを待たせてしまい、怒って帰られる方もいた。それから37年。1万人以上の赤ちゃん達が産声を上げた。それにしても今考えるとゾッとする。よくそんな状況で分娩を受けたものだ。きっとその時はまだ若くて無謀だとは思わなかったのだろう。
その女性が来院されたことで、忘れていた当時の出来事を鮮明に思い出した。そしてお互いに元気であることを神に感謝した。