普段から本を読むことは殆どないのだが、先日田丸雅智さんという作家を紹介していた。私の好きな星新一の作風に似ているというので、とりあえず注文し読むことにした。『海色の壜』というショートショートである。読んでいるうちに私も真似してみようと思い早速書いてみた。

 夜中にアパートのドアを叩く音がした。こんな夜中に誰だ?アイスコープから覗くと誰か居る。

 「どちらさまですか?」と尋ねると「私です」と答える。私ですと言われてもちょうどドアの横に立っているので顔が見えない。

 「何か御用ですか?」と続けさまに問うと「手を洗わせてください」という。こんな夜中にややこしいことが起こりそうだと身構えた。しかしその声は女性の声だ。

 小さい時から親に「女の子には優しくしなさいよ」と口を酸っぱく言われてきた。その為に何回も優しくし過ぎてふられたことがある。しかし夜中にこうやって助けを求めるというのは余程のことなのだろう。

 ドアチェーンを外そうと再び考えた。もしかしたら女装していて本当は男なのではないか。そう思い留まり、ドアチェーンを外すのを止めた。

 もしかしたら知人かもしれないので名前を尋ねてみた。すると「日向なぎさ」という。何と私が5年前に付き合っていた女じゃないか。あの熱く燃えた時のことを思い出しながらその女のことを回想していた。再び「手を洗わせてください」とか細い声がする。声は何となく似ているのだが本人であるのか確認出来ない。そこで彼女との思い出の話をすることにした。

「あの夜、海岸に行った時、月がきれいだったネ。憶えている?」するとドアの向こうから「憶えているわよ、満月の日だったわよね。波がくるたび2人で鬼ごっこみたいに戯れたわよね~」。

 そうそうだった、あの頃まだ私は20代。毎晩街に飲みに出ては女の子に声を掛けていたんだ。いくら声をかけてもみんな無視して通り過ぎていく。そこへロングヘアの女の子が通りかかったので、ダメ元と思い声をかけたんだった。するとすんなりOKしてくれ一緒に飲みに行ったんだ。

 恐ろしい位趣味が合って、毎日会っていたんだなぁ。しかし仕事が忙しくなって中々会えなくなってしまったんだ。その後どうしてるかなと思うことがあっても、そのままになってしまっていた。その彼女が何故?謎は深まるばかりだ。

 しかし元カノ。助けを求めているというのなら助けてあげなくてはならない。思いきってドアチェーンを外した。すると現れたのは紛れもなく元カノだった。「元気にしてた?」という問いには答えもせずに、彼女は洗面所へ小走りし私のいつも使っている石鹸をつかみ無表情で手を洗い始めた。きっとコロナウィルス騒ぎで急に手が気になったんだろう。彼女は石鹸でゴシゴシしながらその泡で手を洗い始めた。

 そんな姿を見て急に愛おしく思えた。その時将来一緒になると誓っていたほどなのに何故会わなくなってしまったんだろう。その後彼女は何をしていたんだろう。彼女にそれを尋ねてみた。しかし彼女は手を洗うのに必死でその問いには答えてくれない。余程コロナのことが怖いのだろうか?必死で洗っている。その後姿を見て、昔自分のアパートに遊びに来ていた頃を思い出して胸がキューとした。

 しばらくして「顔も洗わせて」と言うので、「どうぞ自由に石鹸を使って洗って下さい」言った。きっと誰かに顔にツバでも吹きかけられ「俺コロナだぞ」と言われたのかもしれない。今の世の中そんなバカな奴がたくさんいるらしい。だから丹念に顔を洗うと洗面所から「ありがとう助かったわ、あなた、いつも優しいのね。じゃ私帰るわね」と言うので玄関まで送った。

 振り返った彼女を見てびっくりした。顔がないのである。えっどうして顔がないの?洗いすぎ?それとも私が夢を見ているのか?頭が混乱しながら見送った。

 それにしても顔がない?きっと夢を見ているのかもしれない。お酒でも飲んでみよう。ちゃんと酒の味がしたら夢じゃないからなぁ。そので手元にあったウィスキーを飲んでみた。するとウィスキーの味がちゃんとする。夢ではなさそうだ。何度も何度もなみなみと注いだウィスキーを飲んだ。その度にウィスキーの香りが鼻を通っていく。そのうちに眠くなってしまった。

 朝起きて昨夜の出来事はきっと夢だったんだと思うことにした。だってありえない話だからだ。コーヒーを飲みながら新聞を開いた。そこに飛び込んできた大きな交通事故。高速で5台が絡む事故あり死傷者数名とある。

 その中に「日向なぎさ」の名前を見つけた。きっと彼女は私に別れを告げに来たのだ。そして顔を忘れてほしい為に一生懸命顔を洗っていたのだ。今思うと洗わさせなければよかった。しかしもう後悔しても遅い。