昭和60年(1985年)8月20日、宮崎市の松橋で開業した。35歳の時である。それまでは約7年間近く県立宮崎病院で働いていた。当時県立病院は戦後の古い建物からモダンな今の県立病院に建て替えられ、宮崎で一番立派な病院だった。

 それが出来ると同じ時期に私の医院も建築が始められた。その時に自分の建物に対するポリシーを決めた。①個室を多くする。②各部屋にはTV、洗面台、トイレ、電話を完備する。③窓にはフリルの付いたカーテンにする。④待合室には赤い絨毯を敷く。⑤シンボルマークをピンクのコアラにする。⑥エレベーターを付ける。⑦トイレは全てウォシュレットにする。⑧レストラン並みに美味しい飲食、退院の前日には鉄板に乗ったステーキ⑨各部屋のドアにはステンドグラスをはめる。⑩各病室の壁紙は全て柄違いを貼る…などなど。当時としてはかなりモダンなスタイルだった。

 3年目に病室が足りなくなり、2階の上に新しく3階を増築した。その場所で平成12年(2000)まで約15年間開業していたが、天満橋が通ることになり平成13年(2001)1月1日今の上野町に移転した。ここは元々私の実家で、父が昭和17年(1942)から昭和45年(1970)まで産婦人科病院を開業していた。私も昭和24年(1949)ここで産まれた。

 さて、このクリニックの設計は女性建築士なので、実に女性らしい色使いと、きめ細やかな配慮がされている。例えば、トイレには上の子を寝かせられるように1m四方のベッドが用意してあり、お母さんが安心して用を足せる。壁の色は無地で、控えめな色が使われていて20年近く経った今でも飽きない。トイレの中にも冷暖房が付いている。

 各病室には全てユニットバス、ウォシュレットトイレ、DVD、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、トースターが設置してあり、広いベランダもあり自由に洗濯物が干せる。つまり1Kマンション形式になっている。産後はゆったりと家族と一緒に過ごせるようになっているのだ。

 2人目、3人目の方は上の子と泊まることも出来る。里帰りされた方は御主人も一緒に泊まることも出来る。食事も希望があればお出し出来るようになっている。大変なお産をした後は、せめてそのご褒美としてゆっくりして退院後の育児に頑張ってもらおうと作られているのだ。

 開業して生まれてきた赤ちゃんは約1万人。多い日は1日8人も生まれてんてこ舞をした時もある。

 スタッフは開業当初からあまり変わらず、ベテランばかりなので、安心して任せることが出来る。それだから33年もやってこられたのだと思う。

 開業当初に生まれた人の年齢はもう既に30歳を超えている。そういう人達が次々と当クリニックでお産をしている。本人とは生まれた時しか知らないので会っても分からないが、一緒に来られたお母様の顔を見ると「あの方の子どもさんか!」と分かり感激するのである。産科医で良かったと思える瞬間である。

 まだまだ体の続く限り元気な赤ちゃんを取り上げていこうと思う。これからも宜しくお願いします。