昭和60年(1985)8月20日。宮崎市内の松橋で谷口産婦人科医院を開院した。
35歳の時だった。東京医科大学を昭和50年(1975)に卒業し、1年間大学に残ったが、
昭和51年(1976)大分県立病院に研修医として就職をした。
というのも当時兄が産婦人科医として勤務しており、それを頼って行ったのである。
3年間みっちり産婦人科の基本を叩き込まれ、昭和54年(1979)に県立宮崎病院に就職した。
当時はまだ戦後に出来た古い建物で、夏は暑く冬は寒く、雨が降ると雨漏りがするような病院だった。
そこで又臨床をみっちり叩き込まれた。昭和58年(1983)頃、突然開業したいと思った。
理由は自分でもよく分からなかったが、神のお告げとでも言うのだろうか…。
周りからは「開業するのは大変ですよ」
「公務員だったら食いっぱぐれがないから、そのまま勤めてた方がいいんじゃないの」
「病気になったら全部パーですからね」とか色々心配して頂いたが、開業する事に決めた。
まず大体のプランを決めなくてはならない。
建物の大きさ、ベッドの数、従業員募集など沢山の難題はあったが、
一つ一つ解決してようやくオープンにこぎつける事が出来た。
開院パーティーは当時出来たばかりのMRT『micc』のダイヤモンドホール。
100人以上の方に参加して頂き、盛大にする事が出来たが、
心の中は嵐の中で波にもまれるヨットのような気持ちだった。
開院時の頃のスタッフは受付2人、厨房1人、看護師5人という体勢だった。
どうなるだろうと思って開院の日を迎えたが、思ったより来院される方が多く、23名の方がみえた。
しかし何せ全てが初めての事ばかり、何をしていいか分からず、私を含めウロウロするばかり。
しかし何とか一日を無事に終わる事が出来た。
幸い少しずつ患者さんも増え、3年目にはベッドが不足し2階建ての上に1階足すような形にした。
3カ月間はその騒音で迷惑をかけたが、何とか3階建てが完成した。
平成10年突然、県の職員の方が来られた。
小松川の河川拡張工事の為、立ち退いて欲しいという事である。
まさに青天の霹靂(へきれき)というのはこういう事を言うのだろう。
それも2年以内という制限付きである。その時50歳前、開業して15年が経っていた。
選択は2つ。1つはもう閉院してしまうという考え方。
もう1つは又新しく建物を造り、もう少し頑張るという考え方。
迷いに迷ったが、せっかく頂いたチャンスと思い移転開業する事になった。
約2年かけ、上野町に引っ越した。ここは私の実家で築60年近くの旧家が建っていた。
私が中学まで過ごした家なのである。
それを壊すのは偲びなかったが、それを壊し今の5階建ての『たにぐちレディースクリニック』が誕生したのだ。
前の病院は熊谷組という所に建物をお願いした。
内装は私が考えた。待合は国会議事堂と同じ赤い絨毯、トイレの中まで絨毯を敷き、
各部屋の壁紙は全部模様を変えた。丸太を半分に切りログハウス風の部屋も作った。
しかし素人の私が発案したので、とにかくバラバラで統一性がない。
そこで今度の建物は鹿島建設が建てたのだが、全て設計士にお願いした。
幸いに女性設計士だったので、女性好みの色でカラーコーディネートが出来ていて素晴らしい。
非常に快適なのである。
宮崎市内一の飲食街『ニシタチ』という飲食街に近いので、いつでも飲みに行けると思っていたが、
あまりにも近くてかえって面倒くさくなった。街中なのに大きな道路に面してないので静かだ。
前の場所は昼はダンプ、夜は深夜宅急便のトラックが走り、うるさくて安眠出来なかった。
今この25周年を振り返ってみると実に充実した25年だった。
自分がやりたい事をやりたいように出来た。本当に幸せな毎日である。
多くの同級生はリタイヤして隠遁生活に入っているが、私には性に合わない。
これからも今と同じようなライフスタイルで人生を大いに楽しみ『生きている』という実感を味わいたい。
それはまず周りの人に感謝する事だ。いろんな人のお陰で今の自分が居る。
それに気付かされた25年だった。「これからも宜しく!」これが私のメッセージだ。