最近嬉しいことが続いた。それは私が以前取上げた赤ちゃん達が母親になって、その赤ちゃんが次々と当院で産声を上げていることである。
私は医師になって4年目に県立宮崎病院に就職した。それまで東京→大分と病院を転々としてきた。将来を考えた時、やはり生まれ故郷で骨を埋めたいと思い29歳の時に帰ってきた。そして県立宮崎病院に採用されたのだ。それから約6年間経験を積んで開業した。ちょうど県立宮崎病院が古い建物から今の新しい建物に変わる頃である。
昭和60年8月20日、市内の松橋で19床の『谷口産婦人科医院』をOPENした。当時はかなり忙しく、1日中仕事をしていて寝る間も殆どなかった。分娩は月に60位あり、多い日には8人も生まれた時がある。それでもまだ若かったのだろう。全く疲れなかった。
それから15年後、天満橋建設の道路拡張の為移転することになり、今の場所に『たにぐちレディースクリニック』をOPENさせた。それは街のど真ん中にあり、そこは私の実家で父が昭和17年から45年まで28年間谷口産婦人科病院を開業していたが、昭和45年に亡くなると同時に閉院になった。その頃私はまだ大学3年。卒業までの3年間どうなるのだろうと不安に思っていたが、母親、兄弟の援助を受け何とか卒業したのである。
卒業してから開業するまで10年。35歳の時だった。同級生などに比べるとかなり早い開業である。殆どの医者は卒業後暫く大学に残り色々研究をし、医学博士というものを取り、箔を付けて開業する。名刺にも医学博士という文字を刷り込むのであるが、私は全くそういうものに興味がなく、とにかく色々な患者さんに会って手術などの臨床をしたいと考えていた。だから分娩数、手術数が多い病院に就職したくて県立宮崎病院を選んだのだ。ここで色々な医療の基礎を6年間みっちりと学んだのである。
昭和54年というと、今から40年前である。つまりその当時生まれた赤ちゃんは40歳前後になっているのである。お母さんになっていてもおかしくない年齢だ。当時まだ赤ちゃんだった子達が当院にお産に来るのである。
又昭和60年に開業した当時生まれた子達は今34歳になる。そういう私が取上げた子達が次々とお産をしていく。
ところがその本人とは生まれた時しか会っていないので、外来に妊婦さんとして来院されても全く気付かない。ところが陣痛が来て家族の方が本人を連れて来られる。その時初めてそのお母さんの子どもということに気付く。何十年前であってもその母であるお婆ちゃんになる人に面影が残っているからだ。
最近は5人に1人位の割合で私が取上げた子達がお産をしていく。これも何かの縁である。産科医になって良かったと思う瞬間である。
そしてお婆ちゃんになった方が、口々に言う。「今生まれた赤ちゃんの又赤ちゃんを取上げて下さい。先生だったら3代位取り上げるのは大丈夫でしょう?そう言われても今生まれた子が20歳で出産したら私は90歳。30歳で出産したら100歳。「100歳まではとてもとても…」と答えると、「人生100年時代です。それまでは頑張ってもらわなくては…」その為にはその体力を保てるように毎日頑張らなくてはならない。
嬉しいやら、大変やら…。但しこういうのは産科医でしか味わえない。本当に幸せなことである。
因みに父が取り上げた子の赤ちゃんを私が取り上げ、その子の赤ちゃんを取上げ3代というのが1回だけあった。その時曾婆ちゃんは泣いていた。私も目頭が潤んだ。