1月11日は私達夫婦の結婚記念日。
昭和51年1月11日東京学士会館という所で式を挙げた。
家内の実家は秋田県の湯沢三関という山の中にある集落で、
冬になると2mも雪が積もる豪雪地帯。
そこで義父はリンゴ農園を経営し、リンゴを作っていた。
又、冬になると、東京に出稼ぎに行かないと暮らしていけない生活を余儀なくされていた。
家内は高校を卒業すると、東京の洋品店に働きに出され、
狭い6畳1間の部屋に同僚と2人で住んでいた。家内はそのような生活環境で育ち、
しかも宮崎から遠く離れた所が実家なので母親も二の足を踏んでいて、
結婚には乗り気ではなかった。しかしなかば強引に結婚する事にした。
周りの反対を押し切って結婚したので、私自身あまり結婚式はしたくなかったのだが、
母親が式だけは挙げてくれというので挙げた。
誰1人心から祝ってくれないような暗い雰囲気で式が終わった。
参列者をお見送りする時、1人の伯父がこう言った。「二郎、おまえは実にいい嫁をもらったなぁ」。
その一言が神の言葉に聞こえた。
まさに天才バカボンのいう、我々の結婚は『これでいいのだ』という気持ちになった。
結婚後2回続けて流産し、もう一生子供を産むのは無理ではないかと思った。
3回目の妊娠の時も出血が続き入院した。やはり一生2人だけの生活になるのではないかと危惧した。
しかし無事に長女が生まれると、2回の流産の穴埋めをするかのように、
次の年に長男、その次の年に次女とあっという間に年子で3人の子持ちとなった。
元来母親というのは強いものだが、家内の血の中にはNHKの朝ドラの『おしん』のような芯の強さがある。
ある寒い朝、風呂場の隅で子供達のオムツを洗っていた。
当時、湯沸かし器はまだなかったので、冷水で手はアカギレで真っ赤。
血まで滲んでいた。そこで「レンタルオムツにしたら…」と言うとこちらを振り返り、ニヤっとしてこう言った。
「これが女の幸せというものなの。男には分からないでしょうけど…」。
つまり子供の為だったらこんな事何でもないという事なのだ。その時、初めて家内に惚れた。
その後、さらに2人の子供を授かり、5人の子持ちになった。
子育ては大変で、運動会の季節になると1度に5人分の弁当を作らないといけない時もあった。
その上、私の母と同居だったので、気遣いも大変だったと思うが、
愚痴一つこぼさず、言われる事も素直に従っていた。
最初は猛反対していた母も、最後には自分の娘のように可愛がってくれた。
開業して2年目(昭和62年)病院の駐車場が狭いので、広くしようと思っていた。
ちょうど隣の土地が売りにでていたので、
「隣の土地が必要な時は無理をしても買え」という格言もあるので買おうと思ったがちょうどバブル期。
坪200万円という今では信じられない値段だった。だが買おうと思った。
すると家内が猛反対。結局買わなかった。
バブルが弾けると、あっという間に値段は50万円に下がった。
もし買っていれば今もローンを払い続けていただろう。
ちょうどその頃、ゴルフ会員券も高騰し、フェニックスなどは5000万円の高値がついていた。
友人達が今ゴルフ会員券を買っておけば、資産になるからと勧めた。
それで買おうと思ったら「ダメです」。
本を出すのもダメかと思って尋ねてみると
「ゴルフ会員券はダメですが、本はいいです」とお許しが出たので、
つい調子に乗って、13冊もの本を出した。
その後、ゴルフ会員券がただの紙切れになったゴルフ場が多い。
5~6年前に湿疹が出て痒くてたまらない。皮膚科に行くと、アレルギー性の湿疹だという。
手術で手先を消毒すると次の日は真っ赤になり、汁も出てくる位ひどい。
痒みで夜眠れない。いろんな薬を処方され、それを使用している時はいいのだが、
それを止めるともっとひどくなる。
するとある日家内が「『シジュウム茶』というのが良いらしいわよ」と言う。
次の日、早速それを近くのスーパーで買って来てくれた。
それはお茶の葉になっていて、一々やかんでお湯を沸かし、作らないといけないので面倒である。
しかしそれをずっと毎日飲んでいるうちに見る見る良くなり、今はほとんど湿疹で困る事もなくなった。
今、家内は月10日程、夜の当院の給食の皿洗いをしてくれている。
夜8時頃に出された給食の後片付けをし皿洗いをするのだ。
どんなに疲れていても嫌な顔1つせずそれをやり続けている。
誰でも結婚する際、夢よりも不安の方が多いに違いない。
私もそうだった。しかし結婚して良かった。
今年1月11日で満35周年、珊瑚婚式を迎えた。
あと15年すれば、金婚式。
それまでも時々夫婦で喧嘩をしながらも、夫婦で協力して生きていければ幸せだと思っている。
私にとって1月11日は家内に感謝する日。