私の母は16年前に94歳で亡くなった。老人ホームに入所していた。母を亡くしてから、母のありがたさが身にしみてよく分かる。何せ10ヶ月もの間、母の体内で成長をしているのだ。母の一部が私なのだ。そう思うと悲しくて、通夜が行なわれるまでの2日間、御棺に収められた母とずっと一緒に居た。御棺の中から起き上がり「お~い、二郎」と私の名前を呼んでくれるような気がした。私が生まれてから母が逝く日までのことが走馬灯のように想い出され涙が止まらなかった。
私は8人兄弟の一番最後に生まれた。つまり末っ子である。生まれた時母は40歳。上の子ども達の世話で目が回る忙しさだったことだろう。だから姉6人が私の母親役になってくれた。だからあまり母親に抱っこされた記憶はない。しかし末っ子だったので可愛がってもらえたらしく、上の兄姉に「二郎は一番可愛がられたのよ」といつも羨ましがられていた。
今年も知人からカーネーションが届けられた。このカーネーションが届けられる度に、母の事を想い出してしまう。
私が幼い頃も、母の日はやはり赤いカーネーションを贈っていた。母親を亡くした子供は白いカーネーション。クラスに1人位白いカーネーションの同級生がいた。その時はお母さんが居ないんだぁ…くらいしか思わなかったが、きっとその子にとっては、母の日が辛い1日になっていたのだろうとこの歳になって気付く。
私の子供達が小さい時は、紙粘土で作った首にかけるメダルとか、折り紙でカーネーションの形を作ったりしてプレゼントしてくれていた。お世辞にも上手く出来ているとは言えなかったが、どんな一流の芸術家の作品よりも光り輝いていた。我が家では毎年それを玄関の入口に飾った。そうやって母の日を祝ってもらっていた。
しかし最近の幼稚園では、母の日にまつわる催しをあまりしないらしい。それは離婚して母親が居ない家庭が増えてきたという事情があるという。何せせっかく結婚しても3割が離婚する時代だ。クラスに何人もそういう子が居ても不思議ではない。
我々の子供時代は母親が居ない理由の多くが死別だったので、天国のお母さんに白いカーネーションをという形でのプレゼントもOKだったのだろう。しかし今はそうとばかりは限らない。どんな人にもお母さんはいる。だから母の日の迎え方は様々だ。
母を亡くした私にも『母の日』は訪れる。「お母さんありがとう」。お墓参りに行く度に、心の中で呼んでいる自分がいる。