先日、母の七回忌を行った。大雨にもかかわらず、沢山の方に来て頂いた。
私は8人兄弟で末っ子であるが、まだ8人とも健在である。
しかし残念ながら長女と次女の2人は体調がすぐれず、出席出来なかったが、
その他の6人は出席した。1番上の姉と私は20歳も違うので、もう80歳を越えている。
次の十三回忌まであと6年。
おそらくこれで兄弟が集まるのも最後になるかもしれないという事で、
兄の計らいで、1泊して美味しい物を食べようという事になった。
そこで私に場所を探せと言うので、青島にある『地蔵庵』にした。
ここは料理はもちろんであるが、至る所に気配りがしてあり、ゆったりと宿泊出来るのである。
宮崎市内から車で30分もかからず、隠れ宿として全国的にも有名な所だ。
集まったのは兄弟の他に、その子供、孫、親戚の人達で総勢20人以上。
ワイワイガヤガヤと飲んで騒いで楽しい一夜を過ごし、次の日の朝、安楽寺で法事を済ませ、
昼食はJAL CITY。40人以上の方に集まって頂いて、会も盛り上がった。
その後、お墓へ行った。ものすごい大雨で、本当にバケツの水をひっくりかえしたという表現がぴったりだった。
お墓までの道路は水没し、膝下まで濡れながらのお墓参り。
大きいタオルを持っていなかったので、家内は雑巾をほっかむりして作業をした。
花を生け、大好きなコーヒーを供え、ビショビショになりながらのお墓参りだった。
こんな墓参りは初めてだ。あんまり親孝行しなかったので、
母が怒って大雨を降らしたのではないかと心の中で詫びながら帰った。
母が大分の施設に居る時は、時々会いに行った。12年前の日記を見ていたら、
次のように当時の母の様子が書いてあった。
『母は明治生まれの87歳。大分の老人ホームに居る。もう2~3年前から歩くことは出来ず車椅子生活だ。
4~5年前までは普通に生活が出来ていたのだが、最近はだいぶ認知症が進んでいて、昨日の事などは全く覚えていない。
孫などはほとんど誰なのか分からないようだが、自分がお腹を痛めて生んだ子供達の事は良く分かる。
8人兄弟の内、男は2人。兄は一郎、私が二郎という名前であるが、
先日看護師が「三郎さんは?」と尋ねると「そんなのいない」と怒ったような表情で言い放ったのにはビックリしてしまった。
行く度に、同じような質問をするとその度に「三郎はいない」と必ず大声で否定するのである。
その表情には「年をとったからといって馬鹿にしなさんなよ」という強い意志が見え隠れする。
入所中に足の関節炎を起こしたり、風邪をひいたりしているが、それでも元気で食事もまだ1人で食べる事が出来る。
耳も多少遠いが会話はまぁまぁ通じる。話もそんなにトンチンカンなことにはならなくてすむのが救いだ。
先日ホーム内の食堂で会った時、初老の男性が近づいてきて話しかけて来た。
「最近、お母さんとても元気になってね、2~3週間前までは機嫌が悪くて自分のご飯も食べんと言っていたのにな。
今は何でも美味しい、美味しいと言って食べなさるよ。おとなしく見えるけど、本当は気性が激しいんじゃなかね。
俺はそう感じとるがのう」。
この施設に入所しているのは30人余り。家に1人でおけないような体の不自由な人ばかりである。
お互いのコミュニケーションはほとんどといっていいほどない。
食事の時は1つのテーブルに4人座って食べるのであるが、お互いに会話している所を一度も見た事がない。
初老の男性が又、口を開いた。
「あんた、わざわざここに会いに来て偉いわな。ほとんどの家族は来んから、
テレビをボーッと見てるだけの毎日なのよ。お母さんの部屋はテレビあるの?」
「いや、ありません」と答えると
「そりゃ、いかんわ。やる事がないと一日退屈でかなわんわ。
是非部屋にテレビを置きなさい。貸してくれるテレビもあるからそれを申し込んでもいいけどな。
ところで、お母さん、いくつになんなさると?」
「今年88で米寿なんですよ」
「そりゃ、まだその年でそんなにボケたらいかん。私なんぼに見える?」
「う~ん、そうですねぇ70歳くらいですか?」髪もまだ黒々で顔のツヤもいい。
シミもない。ただ入れ歯がしゃべる度に音をたてている。どうみても70代位にしか見えない。
その老人はその返事に愉快そうな笑みを浮かべて
「ワシなんか90やで、90」その表情は年よりも若く見られたという満足感に満ちている。
そこで「お母さん、この人90だって。負けてるよこの人に…」と言うと、
「ほ~、90ね、90」と母は実に照れくさそうに笑った』。
母が生きているとすると、今年の6月10日で100歳を迎えた事になる。
七回忌として母を偲び、同時に生誕100年祭も祝えた。
私にとっては忘れられない一日となった。