先日、中学の還暦同窓会をした。我々、同級生が生まれたのは、昭和24年4月~25年3月。
まだ戦後の色彩が濃く残っていた。当時の道路はほとんどが舗装されていなかった。
風の強い日は砂が風に舞い、家の中がザラザラになり、雨が降ると至る所に水溜りが出来、
その中で飛び跳ねて親に叱られていた。市内でも一番高い建物は、今の市役所の前にあった山形屋で、
鉄筋コンクリート3階建てで、他はほとんど木造だった。
 今の山形屋の前と市役所の交差点には、直径20m位の円型のコンクリートのロータリーがあり、
左回りになっていて、左に曲がる時はそのまま左へ、右に曲がる時には、
そのロータリーを半周以上回らないと右折出来ないのだ。もちろん他の交差点には信号などもなく、
交差点に入る時は一旦停止して左右を確認する。もっとも当時は車などほとんど走っておらず、
交通事故など起こりようもなかった。
 食べる物も充分とは言えず、学校の給食が楽しみであった。
食べる物が少なかったので、肥満の子供は1人もおらず、みんなアバラ骨が見える位ガリガリだった。
 遊びといえば、ドッチボール、野球、ゴム飛び(輪ゴムをつなぎ紐状にしてそれを飛ぶ遊び。
走り高跳びと同じ様にその高さが変わり、ヘソの位置の高さから始まり肩、耳、頭のてっぺんと高さが変わり、
その高さを競い合う)などしかなかった。
 服装もお兄さん、お姉さんのお下がりは当たり前、継ぎはぎがしてあり何日も同じ服を着ていることも多かった。
鼻からは青バナをたらし、それを袖で拭くのでいつも袖はテカテカに光っていた。そんな貧しい時代だったが、
誰も文句も言わず生活をしていた。
 中学を卒業する前の一番の思い出は東京オリンピック。
その少し前に東海道新幹線が東京~大阪に開通し、日本がようやく戦後というトンネルを抜けた時だった。
 さて同窓会の会場では少しずつ人が集まりかけていた。その中には卒業以来、初めてという人も何人かいた。
最初は誰だか分からなくても、話しをしているうちに「そうそう、こんな人居た居た」と思い出すような人もいた。
女性の多くは結婚しているので、旧姓も名札に入れた。もしこれがなかったら、半分近くは分からなかったかもしれない。
男は2通りに分かれていた。髪が真白かハゲているかである。
その顔には苦労しているのか、加齢現象なのか分からないが、シワが沢山刻まれていた。
それが卒業45年、60歳という年月の長さを感じさせた。
 160人いた同級生も10人近くが亡くなり、全員で黙祷をした。出来ることならみんなで還暦を迎えたかった。
「亡くなった人達は天国できっと同窓会をやっていることでしょう。そのうちに我々もボツボツとその仲間に入っていくでしょう」
とある人がスピーチをしたがまさにそういう事だ。
 45年の時を経て会った同級生。今までは5年ごとにしていたのだが、出来たら毎年でもいいねという意見も多かった。
確かにいつ病に倒れたり、ポックリ逝ったりするかもしれない。それはいいとみんなでうなづき合った。
 60歳これから第二の人生が始まることだろう。それが毎日楽しい事が続くのか分からない。
ただ言える事は出来るだけ残りの人生をハッピーな生き方にしようという事だ。おめでとう同窓生達。
そしてまぁとにかく頑張りましょう。