割烹の暖簾を潜って中に入った。カウンターの横には大きな水槽が置いてあり、その中を魚が泳ぎまわっている。
黒鯛、鰯、伊勢海老、鯵、鱧、河豚、ハギ、オコゼその他名前の分からない魚数種類。
自分の好きな魚を指名すると、魚をすくいあげ目の前で料理をしてくれる。大阪の方では、水槽の魚にキープ札を尾鰭に付けて暫く泳がせ、次店に行く時にお腹に入るというシステムがあると聞いた。ここの店は水槽で泳ぎまわっているだけである。
カウンターの椅子に腰を掛けると、水槽の中から一斉に魚たちが私の方を見る。「旦那、どうぞ私を食べないでおくれまし私はこのように痩せ細って美味しくありません。どうそ他の魚をご指名下さいませ」。
逆に私に近づいて「こんな腰の振り方出来て?しかもこんな赤いべべ着て、きれいでしょう」と愛嬌振りまく魚もいる。
ぴったりと水槽に頭をすり寄せ、「俺を指名したら承知しねーぞ…。」と目をギョロっとむき出し、まるでヤクザのガンをつける様にしている魚もいる。
何日も水槽に入れられ、空腹と疲れにジッと眼をつぶっている魚もいる。捕らえられた時に乱暴に取り扱われ、背びれが取れて眼が片方潰れてしまってまるで傷病軍人みたいな魚もいる。
生きる望みを失って水槽をイライラと行ったり来たりしている魚もいる。「海に帰りたいよ。そして海の中を思い切り又泳いでみたいよ。こんな小さな海イヤだよ。」そんな風にゴネている魚もいる。
ビールを注文して飲む間に、それらの魚が次々と網ですくわれ、まな板の上で調理されていく。力なく尾鰭を振り、精一杯の抵抗をしている魚。まな板の上の往生際悪く、飛び跳ねている魚。そこにはいろんな魚の死の美学がある。
宮崎でも青島で獲れた魚を数時間以内で並べている魚屋さんがある。朝とれた魚は10時半に、昼獲れた魚は3時に店先に並べるのである。その日にならないと何が獲れるか分からない。だから実際店に行かないと、その日のメニューが決まらない訳だ。
海の中には魚の生きている世界がある。そこには本当の弱肉強食の世界がある。プランクトンを食べる小魚、小魚を食べるそれより少し大きな魚、そしてそれより又大きな魚。そいうのが数珠つなぎになって食物連鎖になり最後に人間の胃袋におさまる。
水槽で生かされ何日もいると肉がブヨブヨしてくる。そんなのは魚の幸とは言わない、つまり1分前まで生きていた魚は海の中では新鮮なのに、水槽で飼われているのは必ずしも新鮮でないという人もいる。
生簀の中の魚は料理される前に捌かれるから新鮮そうに見えるが、そうとは言えないらしい。最近では獲れた魚はすぐ活け締めをされることが多い。その方法は色々あるが何れも秘伝である。確かにそう言われてみればそうだ。いつまで生きていたかという事よりも、獲られ方、あるいは死んだ時の状態の方が食べる時よっぽど大切なのだ。
海の近い分、宮崎の人は海の幸には恵まれているはずだ。そのゼータクさをもう少し分かって魚を食べてみたい、そう思いながら割烹めぐりをしている自分である。