私は丑年の生まれ、よって今年は年男である。先日、年男年女の医師達が集まり、座談会があった。1番若いのは36歳の女医さんである。結婚されて息子さんが1人いるとのこと。次は48歳の方で、開業して3年目の先生である。次は私、宮崎市内で開業して24年になる。次は72歳の病院勤務されている先生。最後は84歳の方で、開業されていたが今はもう引退され、息子さんにほとんど仕事を任せているという。
みんな同じ丑年なのであるが、ちょうど一回りずつ違って面白い。その年齢に自分の過去、現在、未来を重ね合わせていた。私は36歳の時は開業して1年目。その当時、産婦人科の開業医は少なく、ほとんど寝る暇もなかった。今の3倍はお産があり、外来も待合室は座りきれない位の患者さんだった。1日何件ものお産があり、1番多い時は1日8人も生まれたことがある。病室は常に一杯で、院長室にも布団を敷いて入院していただいた事もある。開業してお産に関われたという満足感と、忙し過ぎて一体何の為に自分は開業をしているのだろうと自問自答の日が続いた。
家庭では5番目の子供も生まれ、家の中は足の踏み場もない位に子供のおもちゃや洋服などいろんな物であふれていた。病室が足らないという事が分かったので、開業2年目に3階を増築した。その間の3~4ヵ月は屋上からの工事の音で、外来の会話も聞き取れない位だった。しかし体力に限界があり、ついに疲労がたまり入院するはめになった。それでも2日間入院したら元気になり、仕事に復帰した。
48歳当時、宮崎市内の開業医の先生方が世代交代され、新しい産婦人科医院が増えた。お産も急激に減り、ようやく一般的な生活に戻る事が出来た。しかし、元々忙しいのが好きな私は、もっと忙しくならないかと念じていたが、少子化の流れもあり、昔ほど忙しくなる事もなく今まで来ている。
それから天満橋が大淀川に架けられることになり、引っ越しを余儀なくされた。50歳の時にその決断に迫られ、もう新しく建てずにこのまま辞めるのも1つの手かと思った。しかしまだ50歳。もう1回自分の人生に懸けてみようと上野町の方へ移転したというわけだ。もうあれから丸8年の時が過ぎた。ここ上野町は私の実家があり、小さい時から過ごした場所なので、新クリニックが出来てもすぐ馴染む事が出来た。繁華街まで徒歩圏内なのも、私にとっては嬉しいことだ。
そして間もなくやって来る60歳。10月生まれなので、後9ヶ月で還暦を迎えることになる。いよいよ赤いチャンチャンコを着る年になってしまったのである。同級生の中には定年を目の前にして第2の人生を始めようとしている人も沢山いる。しかし私は60歳になっても今と変わらず、産婦人科医として過ごすことだろう。
さて、後1回り長生きしたら72歳。おそらく後5年位したらお産は取り扱わなくなるだろう。体力が1番の原因であるが、今の産科の医療システムでは難しいと思われるからだ。しかし入院はやめても外来だけは続けようと思う。72歳になっても元気でありさえすれば、細々とまだ開業を続けていることだろう。
84歳になった時はどうだろう。その歳まで生きている割合は3割位だろうか。産婦人科医は長生き出来ないというジンクスがあり、多くの産婦人科医が70歳前に亡くなっている。よほど体調に気を付けていなければ生きていないような気がする。というのも、若い時に体にムチ打って仕事をしたツケがその時に回ってくると思われるからだ。
今回、年男、年女の集まりに参加させて頂いて、過去の自分と今の自分、未来の自分が見えてきた気がする。これから先も出来るだけ今のままの自分であり、出来るだけ今のままの仕事、現在の当院スタッフと仕事をしていたい。
60歳で迎える『還暦』は、人生一巡りしてまた赤ちゃんになって再スタートするという意味が込められているそうだ。いつまでも若く、いつまでも素敵に、いつまでも健康でありたいと思っている。