寝台特急『富士』が先日ラストランをしたという。そのニュースを見て、私の若い頃の思い出が蘇えってきた。
昭和39年、私は東京の中学に転校した。高校時代東京から宮崎に帰ってくる時、利用したのは『高千穂』という急行であった。戦後間もない頃の車輌で、向かい合わせに4人ずつ座る形式であった。東京駅を朝10時頃に出発する。大分まではディーゼルで走ってるのだが、大分からは蒸気機関車が引っ張る。トンネルに入ると、ものすごい煙が入ってくるので、トンネルに入る度に窓を閉めなくてはならない。大分と宮崎の県境には数えきれないほどのトンネルがあり、その区間だけは窓を閉め切っていた。延岡を過ぎるとトンネルもないので、一斉に窓を開けていた。
当時、列車の本数も少なく、本当に大勢の人がこの列車を利用した。年末・年始やお盆の時はデッキから人が溢れていて、乗り降りが出来ないので窓から乗り降りをしていた。それゆえに座席に座れるとラッキーで、運が悪いとずっと東京~宮崎間28時間ずっと立ったままである。少し運がいい時は床に新聞紙を敷き、そこに座る事が出来た。だから列車に乗る際、新聞紙は必需品だった。
冬などは床が冷たく、ボストンバッグの上に座ったりしていた。夏などは少年マガジンや少年サンデーなどを買い求め、それを読み終わると床に敷いて座る。デッキのドアは手動で、出入口にはいつも鈴なりの人が座っている。
トイレに行くのも大変で、膀胱炎になりそうだった。私はトイレが近いので、いつもトイレの前に座っていたが、トイレのドアが開く度に、強烈な臭いがした。当時のトイレは水洗ではなく、ボットントイレになっていて、糞尿はそのまま線路に落ちる仕組みになっていた。だから駅に停車する時は『トイレは使用しないで下さい』というアナウンスが必ず流れていた。
小学生の時はそんなことなど全く知らず、鉄橋を列車が通るとその下に行き『天の恵みだ~』なんて言いながら、それを受けていたのだから、今考えるとよく病気にならなかったとゾッとする話だ。
それから数年後、寝台特急『富士』が東京⇔西鹿児島間に運行されることになった。しかし当時、学生の私には高嶺の花で、一度も乗った事がなかった。だから私にとっては憧れの列車だったのである。
しかし、ようやく乗れる日が来た。それは昭和51年、結婚した年である。研修医で、時間がとれず新婚旅行に行けなかったので、せめて東京から宮崎へ里帰りする際、贅沢に家内と一緒に乗ろうと決めたのだ。乗ってみると車内が広々している。A寝台車は2段ベッドなのだが、我々が乗ったのはB寝台車で3段ベッドだった。出発の時は6人掛けの座席で、夜8時くらいに車掌が来て、壁に固定してある折りたたみのベッドを広げ、ベッドを作ってくれる。
急行高千穂の時は、床に新聞紙を敷きそこに横になって寝ていた。列車が揺れたりすると、蹴飛ばされていたことを考えると、柔らかいベッドの上で寝られるというのは夢の又夢物語であった。
車中、忘れられない事がある。私は車中の2段目、家内はその上の3段目に寝る事にした。夜中、無性にミカンが食べたくなり、家内のベッドのカーテンの中に手を入れ、ミカン2つ頂戴という意味で2本指を出した。そしたら、それを見た家内が突然私のベッドに侵入して来たのだ。どうやらミカン2つというサインを2人だけで夜を過ごしたいという意味だと勘違いしたらしい。追い出す訳にもいかず、狭いベッドで2人夜を過ごした。新婚旅行で甘~い思い出がある列車なのである。
飛行機や新幹線などの発達もあり、ついに今回のラストランになったのだが、我々中高年にとってはいろんな思い出が詰まった『富士』なのである。その最後の勇姿を見ながら、これで昭和の思い出が消えたとつくづく思った。