1976年(昭和51年)1月11日私達は結婚式を挙げた。当時、私は26歳、家内は24歳。
友人の紹介で知り合ったのだが、その時はまさか結婚するとは思わなかった。
ところが人の出会いというのは不思議なもので、周りの反対を押し切って結婚したのだ。
『結婚は人生最大の買い物』というが、まさにその通りだと今になって思う。
体が丈夫ではなかった家内は結婚式が終わって自宅に戻ると、そのまま気分が悪くて寝込んでしまった。
過労もあったのであろうが、小さい時心臓の病気で入院した事があるという。
きつそうに横になっている家内を見て、こんな調子じゃ先が思いやられるなぁと思った。
それからしばらくして妊娠したが2回も続けて流産し、もう子供を持つ事も出来ないのかなぁと半分諦めていた。
ところが3回目の妊娠で流産の危機を乗り越え、ようやく長女が生まれた。
『女は弱し、されど母は強し』と言うが、それから家内は強くなった。次々と妊娠し出産したのだ。
気が付けば2歳、1歳、0歳と年子に恵まれた。
しかも長女と長男の間は1歳3ヵ月、長男と次女の間はなんと11ヶ月しかあいてない。
つまり2年2ヶ月の間に3人の子供を生んだのである。
もし長男が4月生まれなら(実際は12月)次女は3月に生まれた事になるので、同学年という事になる。
双子の同級生というのは聞いた事があるが、年子で同級生というのはめったにあるものではない。
3人の子供に恵まれ、家内は実によく子供の面倒を見てくれた。3番目が生まれた時は3人共オムツ生活。
当時紙オムツはまだ高級品で手が届かなかったので、布オムツである。
家に帰ると3人分のオムツが玄関を入った所から暖簾のようにずら~っと干してある。
晩御飯を食べようとすると、コタツの上にオムツが干してあり、オムツの下で食事した事もある。
3番目が急性肺炎を生後1ヵ月目に起こし、人工呼吸器をつけ危篤状態になった時も病院に寝泊りし、
ほとんど寝ずに看病をした。それからさらに2人生まれ5人の母親となった。
その子供達も32,31,30,26,22歳になり孫も2人恵まれ、今や孫から「バーバー」と呼ばれている。
家の中では完全に仕切っていて、病院では院長という職にある私も家に帰るとただの人となる。
食べ終わったポテトチップスの袋をゴミ袋に捨てると「ここじゃないでしょ捨てる所は・・・。
これは燃えないゴミだから台所にある燃えないゴミに捨てて下さい」。
半額の物をスーパーから大量に買って帰ると「あのねぇ、安いからといって沢山買って来ないでね。
冷蔵庫に入れる所が無いんだから・・・。しかもあなたは買って来たのを忘れ、結局腐って捨てる物もあるんだから
よく考えて買って来てね」。お風呂に入ろうとしたら「子供達が入ってからにしてね。
あなたが入った後はお風呂の中が汚いって入りたがらないんだから・・・。どうしても早く入りたいんだったら、
シャワーでサッサと早く上がってね」。ちょっと横になっていると「あのねぇ、今からここ掃除するの。
だからあなたがそこに寝ていると邪魔なのよ。他の所で寝てくれない」。
洗濯物を出そうとすると「靴下なんだけど、裏返しのままバケツに入れないでくれる。
それをわざわざ引っくり返すのが大変なんだから」。
ベランダでプランターに植えた花に水をあげていると「花を可愛がるのはいいけど、
枯葉がベランダに落ちて散らかるのよね。だからちゃんと箒で掃除しといてね。すぐ汚くなるんだから・・・」。
買い物の袋をそのまま机の上に置くと「ここは食事する所よ。そんな所に置くと不潔だわ。だからすぐ下に降ろしてよ」。
出かける時、ヘアチェックしていると「あなた、最近髪の毛が沢山抜けるわね。使った後は流しを綺麗にしといてね」。
まぁ、家に帰ると私も形無しである。
でもこのバランスが夫婦としていいのかもしれない「ハイハイ」と言って従うのはシャクだが、
やはり家内は家の中の大事な守り神。大切にしなくてはバチが当たる。
それにしても結婚して弱々しかった家内は一体どこに行ったのだろう。
でもまぁまずは家内が元気である事が一番である。結婚は最大のギャンブルと言われるが、
そういう意味ではうまくいった方に入るのかもしれない。