最近、娘と話をしていると、よく「じゃっとよ」という言葉を使う。『じゃっとよ』と言うのは宮崎弁で、標準語に直すと「そうよ」という言葉だ。浪人時代、娘は熊本に居て、その時にもクラスメイトと「じゃっとよ」という言葉を使っていたというから、南九州の方言なのだろう。
私は15歳の誕生日を境に東京に行った。行ったというよりも行かされたと言った方が良いのかもしれない。というのも谷口家には『男は15歳になったら東京に行く事』という家訓があるからだ。兄も同じ様に15歳になったら東京に行ったので、私も当然のように東京へ行くものだと覚悟していた。
中学3年の2学期、15歳を迎えた日、やはり父が「東京へ行け」という。中学3年といえば1番の遊び盛り。沢山の同級生と別れて東京で生活するのは不安もあり、出来たら行きたくない気持ちで一杯であった。しかし父の命令に逆らえるはずもなく、行く事になった。
東京へ行って1番の壁は言葉だった。流暢な標準語を喋る同級生の前で、今までお喋りだった私が黙りこくっていた。というのも喋ると宮崎弁が出るのではないかという不安が強かったからである。自分では喋らず、聞き手に回った。それは高校に入ってからも同じだった。なるべく標準語を使おうと練習するのだが、なかなか上手くいかない。それで人と喋るのが嫌になり、ノイローゼになりそうだった。
しかし、高校も卒業する前になると、沢山の友達がかえって田舎者の私に興味を持ち、方言というのも知らないうちに喋るようになっていた。
高校卒業までの3年間でずっと標準語だと思っていたものがいくつかある。『時計が壊れたのでなおす』というのは修理をするという意味で使うのだが、標準語で『なおす』というのは『しまう』という事なので「何故しまうの?」と尋ねられた。
1番気付かなかった言葉は『なんかなし』という言葉である。「なんかなし、そんなことやが…」というのは、『つまりそんなことだろう』という意味なのだが、東京に行って10年位してようやくそれに気づいた。
一方、方言ということを知っていて使った言葉がある。それは『よだきい』という言葉で『何か面倒臭い』という意味なのであるが、それはうけた。同級生の中で今でいう流行語大賞みたいなものを受賞したのである。
一浪して大学に入ると、まさに北は北海道、南は沖縄まで全国から学生が集まって来る。私は今度は東京育ちというレッテルを貼られ『シティーボーイ』として一目置かれる存在になった。関西の人は言葉が全く変わらないのだが、その他の地方の人達はやっぱり言葉に苦労していた。
私はその後、東京→茨城→大分と4年間過ごし、宮崎へ帰って来た。宮崎に帰って来たら宮崎弁が出ると思ったが、これが全く出てこない。やはり中高の時期のトラウマに近い言葉の経験が、脳から宮崎弁を喋ってはいけないという命令がまだ出ているのかもしれない。
それが証拠に宮崎の小料理屋やバーに行って会話すると「県外の方みたいですが、何処から来られたんですか?」と必ず尋ねられる。「ここからすぐ100m位の上野町で生まれましてね…」なんて話をすると本当かな?という顔をされる。
そこで最近、宮崎弁の練習を従業員相手にすることにした。中学時代に喋っていた宮崎弁を必死に思い出して喋る。
先日も「朝起きてたら、マッポス(真正面)に朝日が昇ってるのよね~。今日もアチー(暑い)かなぁと思ってシリー(白い)ズボンに履き替えて仕事場に行ったつよ。そしたらやっぱりヌキー(温かい)し、ダリー(だるい)しヨダキ(面倒臭い)くなったっちゃわ~」。すると従業員が「院長、最近宮崎弁が上手になられましたね」と褒めてくれる。しかしまだまだ宮崎弁には程遠い。しばらくは一生懸命宮崎弁を喋る練習をしよう。