私は8人兄弟の末っ子だ。何と姉が6人もいるのに、兄は1人だけ。
最初の4人が女の子で兄は5番目。
当時の父の日記を見ると、4女が生まれた時はショックだったらしく
「4人も女だと、もうなかなか名前が思いつかない」と書いてあった。
それに引き換え、長男が生まれた時は天にも昇る気持ちだったらしい。
やはり初めての男の子で嬉しかったのだろう。長男の成長がほとんど毎日書いてある。
それから2人女の子が生まれ、私が生まれた時は父は出張で長崎の方に行っていたらしく、
私が生まれたのを電話で知ったらしい。その時の様子を日記にこう書きとめてある。
昭和24年10月26日(水)
二郎生る。(県選挙管理委員の会あり、雲仙温泉に出張中、宮崎より看護婦の平林電話かける。
雑音が多く聞きとりにくし、男の子生まれた事は分かった。後で聞くと大きいため中々生まれず平林も困ったという)。
その後も、私の存在は兄の足元にも遠く及ばず、長男にかける思いは私の何百倍もあったらしい。
兄は『ひまわり』私は『月見草』というような扱いだったに違いない。
それでも末っ子の私は出来が悪いなりに、いや出来が悪いからこそ可愛がられたらしい。
中学1年になった時、クラスで文集を作る事になり『兄貴』というテーマで作文を書いた。
兄は去年大学をパスしたが、二浪してしまったので、姉と同じ学年になった。
兄はとてもお人好しだ。だが、また物好きでもある。
この前、友達が来ていたがどうも様子がおかしい。
いつもよりソワソワしている。だから障子の隙間から見たら、綺麗な同級生の女生徒だった。
このように綺麗な女性には弱い兄だが、いつも冗談をとばす良い兄だ。
兄はスポーツが好きである。その中でもマラソンとテニスが得意だそうだ。
マラソンは中学1年の時の運動会で1位になった事がある。
テニスは2年の頃にジュニア大会で2位だったそうだが、
今でも宮大のテニスコートで友達とよくしている。
僕がテニス部に入っているのは、兄が勧めるからである。
このスポーツは大変疲れるので、今でも勉強をろくにしない僕なのに、
一生懸命やると尚更出来なくなるので、手加減している。
兄は為になる事なら何でも惜しみなくしてくれる。
けれどもプラモデルを作るのには反対しているので、1円も援助してくれない。
しかし「やっぱり兄が居て良かった」という事が時々ある。
例えば、野球をするとか、問題の分からない所を教えてもらったり、
絵がなかなか出来ない時は手伝ってくれる。
僕は姉が5人いるよりも兄が1人いる方が心強いと思う事がある。
その後、私も上京し兄と同居生活をしていた。
私が大学に入り兄が大学を卒業するまで約5年間一緒だった。
インターン制席闘争でほとんど学生時代を学生運動で費やしていたので、
あまり一緒に居た記憶はない。
私が大学に入学した時、兄は大分県病院の産婦人科に就職が決まった。
ちょうど、宮崎で産婦人科病院を開業していた父が亡くなり、
いずれ宮崎に帰り跡を継ぐ為に研修をしようという事だったらしい。
私も大学卒業1年後、兄の居た大分県病院に研修医として就職した。
3年後、私は宮崎に帰り宮崎県病院に昭和54年に就職した。
その後、兄は東京にある癌研で研修し再び大分に戻り、大分県病院の院長になった。
一方私は昭和60年に宮崎の松橋で開業した。
開業医は長男が後継ぎするのが普通だと私も思っていた。
しかし私達兄弟は兄が開業より公務員の方が合っていると言い、
私は公務員は苦手という事ですぐお互いの役割を交代した。
兄は古稀を迎え、私も還暦を迎えた。お互いに産婦人科医ながら違う道を選んだ。
今でも兄は私や私の家族の事をいつも気にかけてくれ、時々宮崎に遊びに来る。
私にとってはかけがえのない兄である。
上の姉達からは「2人ともどちらか分からない位顔がよく似てきたわ」と言われている。
並んだ写真を見ると、確かによく似ていると思う。
自分でもビックリする位だ。まぁちょっと違う所は髪の毛の本数が私の方が多い位だろう。
これからも兄とは大切なパートナーとして、一緒に頑張っていこうと思っている。
これからも宜しく。幼い時、世話になった分、老後は面倒みてあげるからね…。