私の生まれた所は宮崎市仲町44である。昭和24年10月26日当時産婦人科医院を開業していた父の病院で生まれた。その生まれた場所は今のたにぐちレディースクリニックの待合の北側にあたる所である。つまり今のたにぐちレディースクリニックは私の実家があった所なのだ。父は県選挙管理委員の会があり雲仙に出帳中で不在であった。助産師の話によると8番目の出産であるにも関わらず難産だったらしい。何せ一貫二百匁あった。今でいうと4200gもあったからだ。
それから中学校まで仲町、恵比寿町、上野町と町名変更はあったものの15年間を過ごした。
父が開業したのは昭和18年であったが、この土地を開業の地と決めたのは前年の10月であった。その当時の様子が父の日記に残っている。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
昭和17年10月2日(金)
宮崎市仲町の土地は現在清水医院になっているが、前は牛乳屋があった。裏の方は牧場になっていた。清水さんという人は産婦人科医院を開業していた。今は亡くなり未亡人と子供が病室の方に住んでいる。
清水医院 というのは映画館帝国館の反対側の角屋敷で、大成座や飲食街、芸者屋などが近く繁華街、宮崎の中心の賑やかなところに隣接、ゴチャゴチャしたところにある。道路も狭く、帝国館の横などは物売りの荷車が道に溢れて通るのも困難な位で隣は市場になっている。
しかし屋敷は広く野菜など作ったり植木もたくさん植えてある。せんだんの木が3本もあって、中々田舎の面向きがあり別にゴチャゴチャしたところはない。だが診察室などは狭いもので病室もたたみ敷きの障子を建てた古臭い病室が7室と手術室、自炊室、炊事室2カ所がついている。
賑やかなところの方が患者も集まりやすいが、余りに猥雑で中流以上の人は集まらぬということもあるべし。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
生まれた時の記憶はあるはずもないが、幼稚園の頃になると随分色々な記憶がある。病院の南側は猪野内科医院だった。約300坪位の広大な土地に沢山の木が植えてあり、その庭で仲間達とビー玉やパッチン(メンコ)遊びをした。
隣には高級フルーツを売っている江川商店がありその前には寿司屋。通りの頭上には当時としては珍しいアーケードになっていて、雨の日も買い物が出来るようになっていた。しかし屋根はモルタル造りで時々子どもが屋根に上り、屋根が抜け落ち怪我をすることもあった。当時は汲み上げ式のトイレの為、アーケードの中は何となく便所の臭いがしていた。店の中は土間でコケが生えており、裸電球で照らされた店はいつも暖かく見えた。
すぐ目の前には帝国館という映画館があり、映画を上映していた。当時は娯楽といえば映画位しかなく、沢山の人が出掛け賑やかだった。今のバージニアビーチの南側、今のタイムズ モナコパレス上野町には大成座という映画館がもう一軒ありここにも大入満員の盛況であった。
帝国館はその後ストリップ劇場になった。キャッチボールを子供同士でしていると、時々ストリッパーのおねぇさんが一緒に遊んでくれる。夏などは冷房がないので建物の窓は全て開けられ、バンドの生演奏が夜遅くまで続いた。小学校2~3年生の時父に「隣は何でうるさいの?」と尋ねたことがある。すると父は「女の人が裸で踊っているんだよ」とぶっきらぼうに答えた。その晩はその言葉で興奮して眠れなかったのを憶えている。
料亭も何軒かあり、夜になると囃子や太鼓の音が風に乗って聞こえてくる。時にはうるさくてたまらない事もあった。今でいうとカラオケ公害みたいなものであろうか。
当時ファミリーレストランなどはなかったが、銀天街の入口の所に『ミシロ』というレストランがあった。年に1~2度連れて行ってもらった。ハヤシライスやビフテキそれにアイスクリームが美味しかった。甘い物に飢えていた時代だったので、アイスクリームが食べられるというのがものすごく嬉しかった事を憶えている。
昭和30年時代はニシタチや中央通りにはまだ飲屋など一軒もなかった。舗装もしていないので風が強い日には埃が舞う。雨の日には水溜まりが出来、道に転がっている濡れた綺麗な石を拾って帰るのが楽しみだった。ニシタチや中央通りには、商店や普通の家ばかりが並んでいて、今みたいな飲屋街を誰が予想しただろう。
青空市場から市役所に続く道は家具屋さんが沢山あった。印刷所、印鑑屋なども軒を並べていた。
戦災で宮崎市内の3割が焼失した。しかし実家のあった仲町の付近はほとんど焼けることなく残った。裏通りに入ると今でも当時の懐かしい香りがする。戦後75年。新しい街の建設と同時に、昔の面影の残った街並みの保存も大切だと思う今日この頃である。