ホルマリン臭の中に彼はいた。彼は病理学者。色々な臓器の細胞や組織を調べ、病名をつける。彼の診断で病名が決まる。目立たない職業であるが、なくてはならない大事な職業である。彼のデスクの後ろには沢山の本と一緒にプレパラートが所狭しと並んでいる。紙せっけんのように薄く切り出された標本を、根気よくプレパラートにしては真剣に顕微鏡で覗く。

 顕微鏡のレンズの中には、赤や青く染まった組織が沢山見える。その中に悪性の細胞があるかどうか、隅から隅まで探していくのである。悪性の細胞を見つけると、先の細いペンでそれに印をつけていく。一日中顕微鏡を覗いているので、自分は世界一孤独な男だと思う事が時々ある。それでも自分がいないと医学は進歩しないんだという自負もあり、自閉症的な自分に適した職だとつくづく思う。

 ある日彼を訪ねた時、彼は言った

 「僕はね、色々な人といつでも会えるんだ。特別な方法でね。例えば先日亡くなった歌手のA子さん。昨年亡くなった政治家のBさん。会いたい時にいつでも会えるよ」

 「だってみんなもう故人じゃないか。一体どうやって会えるんだい」

 彼はニヤッとして、机の後ろの引き出しをあけ、プレパラートを取り出した。

 「ほらこれがA子さんの胃。これはBさんの肺」

 「なるほどプレパラートにしてあるんだね。これじゃいつでも会えるね」

 「実は君のお父さんのもあるんだ。もう亡くなって50年にもなるんだね。時間が経つとプレパラートはどんどん処分されていくのさ。ほらこれがそうだよ」

 無造作に彼はプレパラートを机の上に置いた。

 「君のお父さんはもうちょっと早く癌が発見出来ていれば、脳に転移しなかったんだが、医者の不養生というやつだな」

 スライドグラスの上に、まさに父の脳は薄くスライスされて貼り付けてある。それを顕微鏡にセットすると彼は言った。

 「ほらごらん。この印の付いている所が、悪性細胞だよ。残念ながらこれだけ広がってしまえばどんな名医が治療してもギブアップだね」

いかにも人相が悪そうな細胞がズラズラと行列している。医師自身の私としてみれば「ほうこりゃ凄いや。確かに酷いね」というのだろうが、父の脳の一部なのだ、そういう感情が全く湧かない。

 この脳細胞で毎日色々な事を考えていた訳だ。勿論この細胞は私の事も考えてくれたはずである。私が産まれて20歳になるまで、この脳細胞のいくつかは、私の事を考えてくれたはずである。

 「もうこれ置いておくところがなくて処分するんだけど、君にあげるよ」彼はそう言うとプレパラートを私に手渡した。

 「ありがとう。これで僕もいつも父に会える。どうもありがとう。本当にありがとう」ぼくは礼を言うと、そのプレパラートをティシュに包み大事に持って帰った。

 そのプレパラートを見ると何故か勇気がわいてくる。天国の父と会話が出来るような気がする。自分は一人じゃなんだ。そんな気になる。