白髪の品の良い年配の女性が来院された。子宮癌が心配なので検査をしたいとのこと。背をピシッと伸ばし、足取りも軽やかである。年齢をお聞きすると何と92歳だと言われる。その年齢の時私の母は、寝たきりで意識も無く胃瘻を付け生かされているという状態だったのだが、この女性は違った。

 診察が終わり話を伺った。するとピアノの先生をされていたという。今でも毎日何時間もピアノを弾いているという。そこで1週間後結果を聞きに来院される際に、ピアノを弾いて下さることを約束してくれた。1週間後約束通り来られた。

 子宮癌の結果は異常ないと答えると「ほっとしました。心配で、心配で夜も眠れなかったんですよ。」と言われる。そして「約束通りピアノを弾いて差し上げましょう」と言われるので、待合室のグランドピアノに案内した。

 椅子に座られたら、「ちょっと楽譜が見えにくいので、メガネを2つかけさせて下さい」言われる。「どうぞ」と答え、よく見ると、かけておられるメガネの上にハズキルーペをかけられている。あの今流行っているハズキルーペである。

 そしてピアノを弾き始められた。それはとても92歳とは思えない指使いである。体の力を抜いて、指が正確にスルスルと動く。その弾き方に淀みがない。92歳の指とは思えない指の動きである。約30分続けて弾いていただいた。その女性は持って来た楽譜を全部弾き終ると、満足した表情で帰られた。

 私も小さい頃ピアノを習っていた。親がどうしても子ども達にはピアノを弾かせたいということで、私の兄弟8人全員ピアノを習わされたのである。戦時中でさえも、飛行機の部品で作られたというお粗末なピアノを防空壕の中に置き、子ども達に弾かせたというからその熱意にびっくりする。私の場合、習うのが嫌で2年位で辞めたのであるが、もう少し習っておけばもっと上手くピアノを弾けたのにと思う。

 認知症予防法として、ピアノ療法というのがあるという。人間の脳の中には数十兆個という神経細胞が詰まっていて、その間をつなぐのがシナプスと言われる情報伝達物質である。それが活性化している人は老化の進みが遅いという。指を動かすことだけでなく、楽譜を読み、次に出てくる音譜を見て準備しておく。それも脳の活性化に繋がるのだ。しかし最大の理由は左右の手を別々に動かすという複雑な動きをする為だという。右脳は創造性を司り、その為には左指を動かさなくてはならない。一方左脳は理性的な事を担当し、右指を動かすことで活性化する。ピアノを弾くには指が左右バラバラな動きをするので老化防止になるのだ。

 私も時間があるとピアノを弾いている。大した時間ではないが、それが私の元気の源なのかもしれない。これからも出来るだけ時間を作ってピアノの練習をしよう。今は週に2回位のペースで入院中の患者さんに待合室のピアノで私のピアノ演奏を聴いてもらっている。ただ弾くのではなく、患者さんのリクエスト曲を弾くので好評である。中には感極まって涙する方もおられる。きっとこの曲を聴いた時の事を思い浮かべ泣かれるのだと思う。これからもずっと続けていきたい。