大学の同級生の奥様から電話があった。突然の電話なので、何の用件なのだろう?そういえば10年以上前に、ダンロップゴルフトーナメントに出場するタイガーウッズがどうしても見たいと遊びに来たことがある。その時も突然電話があり、せっかく宮崎に来たのだから、ちょこっとだけでも会いたいということで、わざわざ当クリニックに来られ久しぶりの再会をした。
多分そのような用事の電話だと思い受話器を取った。すると「主人が先月亡くなりました。どうしても主人が先生(私)のことを気にしていたのでお電話したのです」。
3、4年前東京で行われた同窓会では、奥様も同伴で元気そうにしていた。どこも悪そうに見えなかったのに…。しかし何故彼は私のことを気にかけてくれていたのだろう。家族付き合いをしていた訳でもない。年に一回の年賀状のやりとりをしていた位である。それなのに何故わざわざ?すると奥様からこう言われた。「先生の書かれたエッセイの中に『最後の日』というのがあり、そこに主人のことが書いてあり、その文章がとても気に入ったのです。亡くなった後も仏壇の前に置いてあります。主人もそういうことで、もしも自分の身に何かあったら先生の方に電話してくれと頼まれていたのです」と仰った。
そう言われて思い出した。8冊目のエッセイ集「心ぽかぽか」の中に彼のことが書いてあったのだ。そこで早速その本を本棚から取り出してみた。そのページを開けると次のようなエッセイだった。
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大学の友人にT君という同級生がいる。彼は私と同じ子どもが5人いる。先日久しぶりに遊びに行った。自分の家では気が付かないが、家の中に子どもが5人居る風景は圧巻だ。つい、ひー、ふー、みー、よー、いつと数えてみる。彼は私と同じ位の歳なのだが、結婚が私より3年位遅かったので、5人の子どもさん方も、うちより3つ位学年が下になる。だからうちの家族の3年前の様子を見ているようだ。
子どもさん方の1番上が小学校6年生で、まだまだ親に甘えたい年頃だ。風呂も一緒に入るし、相撲も一緒に取る。将棋も一緒にすれば、テレビも一緒に見る。
そういう風景を見てふと思った。私が子ども達と一緒にこうやって時を過ごしたのはいつまでだったのだろうと。
それをずっと遡っていくと、それぞれの最後の日があるはずだ。
例えば、ハイハイをしなくなった日。母乳を飲ませなくなった日。オムツをしなくてもよくなった日。添い寝をしなくてもよくなった日。幼稚園の迎えに行かなくてもよくなった日。お風呂に一緒に入らなくなった日。それぞれの子どもの成長につれて最後の日というものがある。最後の日の前後にはあまり意識しないが、ずっと後から、そういえばあの時はそんな時代もあったんだなと懐かしく思えてくる。それと同時に今はそういう事も出来なくなったんだなあという淋しさもある。
今からも気付かないうちにどんどん子ども達の最後の日を迎えることだろう。そして最期の日がなくなった時、こども達は立派な大人に成長しているはずだ。
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エッセイを書き始めて30年近くなる。その間色々な想いを持って書き続けてきた。その数はゆうに3000を超える。しかしこのような「カタチ」でのエッセイの反応というのは初めてだ。
書いている時は色々なことを考えながら想像を膨らませている。勿論、相手のことも頭に浮かべながら書いている。このような反応があるなら、もう少し気合を入れて魂を込めて書かなくてはならない。まだまだエッセイストとしては未熟だ。