小さい頃の思い出は沢山あるが、その中でも一番良く覚えているのが橘通3丁目(今の山形屋の前)と橘通1丁目(今の市役所前)の交差点にあったロータリー…。と言っても若い人には何のことか分からないかもしれない。それは交差点の真ん中に高さ1m、直径20m位の丸いドーナツ型になったコンクリートの壁があり、その中に芝生が植えられ、その真中には大きなフェニックスが天を仰ぐ様に立っていた。
 車はその交差点に入ると、時計回りに曲がる。左折は90度左(上から見てると9時方向)。直進はロータリーを左から回り、12時方向へ。右折はロータリーを3/4周して曲がるようになっていた。運転している人の中には、酔っぱらい運転の人も居て、今では考えられないが、勢い余ってそのままロータリーに正面衝突することもあったらしい。それも昭和40年に撤去され、今の信号機のある交差点になった。
 今かかっている高松橋は、昔は木製だった。信じられないかもしれないが、砂利道で、左右は転落防止の高さ50㎝位の木の欄干だった。この橋も昭和31年にかけられたが、昭和42年台風が来て、橋ごと流されてしまいしばらくは橋がなかった。その後今の高松橋が完成した。
 日南線は、昔は堀切峠の下の海岸を内海まで走っていた。堀切峠の上の道路から下を見ると、3両編成の列車が豆粒みたいに見え、海岸ギリギリを走っていた。これも天候が悪いとしょっちゅう運休になり、昭和38年に廃線となった。
 青島に行く道路もまだ今みたいに舗装されてなくて砂利道だった。だから前を車が走っていると、物凄い砂ぼこりが起こり、窓を開けていると中に入って来る。だからその時は夏でも窓を閉めて走るか、あるいは猛スピードを出して前の車を追い抜くかだった。
 列車もすべて蒸気機関車であった。東京へは「高千穂」と言う急行があった。朝10時に宮崎を出ると、次の日の午後2時に東京に着く。実に28時間も列車に乗りっぱなしである。トンネルに入ると煙突から出る煙が中に入ってくるので、すぐ窓を閉めなくてはならない。東京に着く頃には、鼻の穴はススだらけで、ちり紙で鼻の中を拭くと沢山のススが出てきていた。ちなみに高校、大学時代、私はいつもこの列車を利用していた。
 近くの川まで釣りに行くと、船は全部櫓を漕ぐ様になっていた。船尾に櫓の球形になった場所を置く所があり、櫓を左右に漕ぎながら舟を進める。要領を覚えるまでが大変だが、慣れるとスイスイと川面を進んで行く。
 テレビが初めて宮崎で見られるようになったのは昭和35年。7月にNHK、10月にMRTが開局。屋根の上にアンテナを立てていても、風などが吹くと画面が砂嵐みたいになっていた。それでも「ルーシーショウ」や「ルート66」、「サーフサイド6」など家に居ながらにして見られると言うのは、当時凄いカルチャーショックを受けたものだ。台風などが来るとアンテナが倒れ、その度に父が屋根に上り向きを調節する。テレビの前では家族が「その向き、その向き」と言いながら微調整をしていた。
 今の上野町の病院の横には、大成座と帝国館と言う大きな映画館があり、宮崎一の繁華街だった。県内いたる所から人々は汽車やバスを乗り継ぎ、そこまで遊びに来ていた。今の中央通りはその当時はずっと民家が軒を並べ、道は砂利道で雨が降る度にぬかるみ、通学も大変だった。
 あれこれ思い出すと、実に懐かしい。記憶の隅にしまわれていた思い出達が次々に浮かんで来る。
たった50年(半世紀)前の事なのに、物凄い昔のような気がする。それほど自分はあっという間に年老いてしまったのだろうか。時の流れは実に早い、それは60歳を過ぎてつくづく思う。「還暦、還暦」と騒いでいたのが、あっと言う間に古稀になろうとしているのだ。まさに「光陰矢の如し」。