エジプトのツタンカーメン王の墓からエンドウ豆が発見された。よく見るとその豆の一部から芽が出ている。試しにそれを栽培したところちゃんとエンドウ豆がなったそうだ。そのエンドウ豆が販売された。50年前の話だ。その後毎年エンドウ豆がなり、沢山の人に分けられ、今や数えきれない位の人を楽しませている。
実が生る前の花は赤紫をしている。その姿は可憐だそうだ。お米に入れて炊くと紅色のご飯に姿を変える。勿論そのまま食べることも出来る。エンドウ豆は3000年の長い眠りから覚め、現代人の舌を楽しませてくれているのだ。
さてAさんは子どもが生まれたのを記念して、高さたった6cmのインドゴムの小鉢をかった。毎年少しずつ延びていき、5~6年もすると先端を切断し挿し木した。どんどん伸びる枝の先端は次々と小さな鉢に分けられ、友人たちにプレゼントされている。その数は今では数えきれない位になった。
夏は外に出し、寒くなると部屋の中に入れる。春になり又外に出すと、ゴムの木は気持ち良さそうに太陽のエネルギーを求め、無限に伸び続けているようだという。
またBさんはベランダに松葉ボタンの鉢を置いている。種はゴマ粒のように小さく成長も遅い。一体いつ咲くのだろうと見る方をイライラさせる。ところが小さくても花を付け始めると、次々に可愛らしい花が咲き目を楽しませてくれる。小さな種でもいずれは人の目を楽しませるようになるということを知り、成長は遅くても成長を待つという楽しみを教えられたという。
小学4年だった私の娘の宝物は5cm位の黒い色をしたイモムシだった。ご飯を食べる時も、お風呂に入る時もトイレに入る時でさえいつも手元に置いてある。その姿はグロテスクで家族は誰も触りたくもないと思っている。だが寝る時でさえ寂しくないようにとベッドに持っていき、小さな箱に入れ一緒に寝ていた。
そういう子供の姿を見ていてある人の言葉を思い出した。それは次のようなものだ。
『少年時代はイモムシみたいなもの。土の中でモゾモゾ動いている。その時は自分は一体何か役に立つことがあるのだろうか、あるいは自分の夢さえ知らない。しかし生きていればいつか夢ある未来が開け、羽ばたく時がくる。だからいつまでも夢を持って生き抜いていこう』と。
花を育てるには1年。木を育てるには20年。人を育てるには一代を要する。花や木を育てるというのは、自分の心の中にいるもう一人の自分を育てあげていくことなのだ。街に溢れている花や緑を見ていてそう思う。