宮崎総合博物館で『昭和の家族展』が開催されていた。
そこには戦後の昭和が見事に再現されていた。私が生まれたのは昭和24年。
いわゆる団塊の世代と言われる時代だ。この年、1年間で270万人もの赤ちゃんが生まれた。
昭和20年に戦争が終結し、戦争は経験していないが、戦後のまだ貧しかった時代を生き抜いた、
いわゆる『戦争を知らない』世代だ。
 兄弟が多かったので、下の方になればほとんど上のお下がりだった。
服はつぎはぎだらけで、洗濯も充分にされず、いつも薄汚れた格好をしていた。
青鼻を垂らしていた子も沢山いて、袖でそれを拭くので袖はいつもテカテカだった。
 お菓子などもほとんどなく、病気になると粉薬に混ぜられるお砂糖を舐めるのが楽しみだった。
手作りのアイスクリームを作ってもらい、食べた時は脳天をつらぬくような美味しさであった。
こんな美味しい物が世の中にあるのかとカルチャーショックを受けた。
おやつはサツマイモ。それでもお腹の空いている時は、御馳走だった。
『ワタナベのジュースの素』という粉末状のジュースが発売された時は、親に黙って隠れてそれを舐めていた。
しかし、それにオレンジ色の色素が混ぜてあり、舌がオレンジに色づくのですぐ親にバレて怒られていた。
 当時、流行っていたのはメンコ遊び。厚い紙で出来たトランプ大のメンコを地面に置き、
その近くに自分のメンコを叩きつけ、その風圧でそれがひっくり返ると勝ちで、その相手のメンコが貰える。
取ったメンコの多い子は『メンコ名人』と呼ばれ尊敬されていた。
 テレビもなかったので、近くの広場ではリンゴ箱位の大きな箱を自転車に積んで紙芝居のおじさんがやって来た。
やって来るとまず太鼓を叩いて紙芝居が始まる事を知らせる。すると路地裏から次々と子供達が集まって来る。
おじさんが面白、おかしく紙芝居をするのをみんな目を輝かせて見ていた。
終わると5~10円位のペロペロキャンディーみたいな物を売りつけて、おじさんは他の場所へ移動して行く。
 風呂は五右衛門風呂。外に薪が沢山積んであり、時には薪割りもさせられた。
五右衛門風呂はちょうど炊飯器のお釜の形をしていて、底の部分が鉄で出来ている。
そのまま入ると足を火傷するので、丸い木の板を敷いて入っていた。
ぬるくなると外へ出て又、薪をくべなくてはならない。
今考えてみれば不便だったが、入るのが楽しみだった。
 洗濯は洗濯板でしていた。60×40㎝の板に溝が掘ってあり、
まさにその形は日南海岸の『鬼の洗濯岩』を思い出させるような形である。
これに欠かせないのが大きなタライである。よくドリフの『8時だよ全員集合』で出て来るあの金タライである。
石鹸は固形石鹸で豆腐半丁分位の大きな物を使っていた。
洗濯機が出たのはそれからしばらくしてで、横に大きな手回しのローラーが付いていてそれを回して絞る、
クシャクシャになって出て来るので、洗濯物は必ず2~3回大きく空中で振ってシワを延ばしていた。
 こたつは電気ではなく豆炭であった。豆炭に火を付けそれをこたつの中に入れる。
当時は絶対こたつの中に潜り込むなと口酸っぱく言われていた。
何せ頭を中に突っ込むと一酸化炭素中毒を起こし、気分が悪くなる。
そのまま気が付かないと死んだりする事もあった。こたつに入るのも命がけだったのである。
 こんな貧しい時代だった。しかし心は今の子供達よりも満たされていたかもしれない。
何もないだけに遊びは工夫を凝らしていた。殴り合いの喧嘩もよくしたが、相手の急所だけは狙わない。
もし急所を殴ったりしたら、それだけで仲間はずれにされた。相手の痛みがよく分かっていたのである。
ちなみに急所は体の真ん中の部分、顔、みぞおち、股間である。
 今の子供達は、50年したらどんな懐かしい思い出に浸る事が出来るのだろうか。
ひょっとしたら何でもあり過ぎて、思い出がないかもしれない。